運動ー身体性を発揮することで得られる相互交流

運動は足利豎学会の教養七科目を一本の木に例えると”枝”としての役割を有し、多くの葉を支えています。運動を教養の一つというと違和感を覚える人もいるかもしれませんが、人間は身体を通じて他者と関わっています。その身体性を発揮した運動は、他者と交流し相互理解を深めていく上で重要な位置を占めているといえます。

 

運動を教養として修める意義

身体性の発揮

運動を教養として修める意義の一つは、身体性の発揮です。私たちは、日常生活を営むにあたって、身体を必要とする機会はかつてよりも大幅に少なくなっています。移動時に歩くことも少なくなり、身体をあまり使わないで済む仕事が多くなり、その他の大抵のことは手元にあるスマートフォン一つで出来るようになってきました。

身体をあまり使わないで出来ることが増えてきたということは便利である一方、身体を用いることによる充実を得にくくなっているということでもあります。

人間は五感を通じて世界を感じ取り、肉体を通じて世界に働きかける身体的存在です。身体を使わないということは、世界への接点を減らしているということを意味し、それは自分自身の生きている世界を狭めているということになります。

身体は使わなければ使えなくもなっていきます。自らに備わった可能性を失っていくことは、決して充実感を得られることではないでしょう。

自らの身体的可能性を発揮することで充実感を得て、自らの可能性を更に広げていき、様々な活動への活力としていく。これが、教養としての運動で目指すものの一つなのです。

 

運動による相互交流

運動することは、また、他者との交流にとっても重要です。一緒に運動をする相手は、家族や友人であったり、学校や会社の知り合いであったりと様々ですが、運動することでそのような相手との交流を深めることができます。

運動の場では、立場の上下といった普段の関係からは見えてこない相手の一面を見ることができます。いつもは取り繕っている人でも、運動という身体を通じた交流では取り繕うことはできません。偽らざる交流は、より深い関係性の基盤になります。

また、運動は言語や文化を超えた交流にもなります。オリンピックに代表される国際スポーツ大会が国を超えて多くの人を魅了するように、運動は言語や文化が異なる者同士にとってのコミュニケーションツールとして、人々を結び付けるのです。

さらに、雄大な自然の中で楽しむスキーやサップなどのスポーツは、自然に対する感動も湧き起こします。このような感動の共有は、単なる相互交流にとどまらず、他者とかけがえのない時間を共有する体験となって、お互いの胸に残り続けていくのです。

 

運動を教養として修める方法

足利豎学会の教養としての運動では、競技としての勝ち負けよりも、スポーツを通じたコミュニケーションを重視しています。もちろん、それは運動に手を抜くということではありません。手を抜くことは身体性を発揮することにならず、スポーツを通じて交流する意味も失われてしまうからです。

運動に真剣に取り組み、お互いに高め合うことで相手を理解し、また自然と触れ合うことで感動を共有する。これを積み重ねることが、教養としての運動を修めることになっていくのです。

 

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