宗教学ー他者が信じ大切にするものを貶めないために

宗教学は歴史学と同様に、足利豎学会の教養を一本の木に例えたときに、”幹”の役割を担っています。「何を信じているのか」ということは「過去に何を経験してきたのか」ということと同じぐらい、人を理解するための基本となります。宗教学は「宗教=信じていること」に関する学問であり、それを学ぶことは他者のより深い部分を理解することに繋がります。

 

宗教を学ぶ意義

人々を惹きつけ続ける宗教

最近では、神社やお寺といった宗教的空間でも外国人を見かけることは珍しくなくなってきました。長い歴史を積み重ねた寺院にて日本人僧侶に交じり参禅し、浴衣や着物に身を包んだ彼らが神社仏閣巡りをし、箸を使って四季折々の食材で調理された和食を楽しむ外国人観光客。

本来なら宗教的空間や建物、それらに由来する多くの事象はその宗教の教えや荘厳さを可視化したものであり、萎縮してしまうだけの重さを持っていますが、過去を振り返れば数え切れない人々を惹きつけ、人々の居場所となってきました。

もちろん、それは日本仏教や神道以外の多くの宗教に見られる共通点であり、宗教的空間は多くの人々の居場所となり、また信仰によって信徒の心の拠り所にもなってきました。

合理的な思考や自然科学が人間の問題に対してより正確で希望に満ちた答えを示すようになった今日でさえ、人々は信仰を大切にしています。

それは人間がコントロール出来ないほどの加速度で発達していく「科学力」に対して、人間の肉体的・精神的成長が追いつかず不安になる現状を埋める行為にもなり、科学の入り込めない「心の聖域」として人々の拠り所となっているのではないでしょうか。

 

インスピレーションの源としての宗教

また、宗教は文化や芸術を生み出すインスピレーションの源としての側面も持ち合わせています。古来より、宗教の副産物として儀式の装飾品、法具が制作されてきました。

技術がより進んだところでは建築思想をも形成し、包括的な宗教的芸術としてその地域に計り知れない影響を与えて「文化」そのものを生成してきました。

現代においても、アメリカの高層ビルはエンパイアステートビルでも、クライスラータワーでも、ビルの頂部はアールデコ風に美しくデザインされており「現代のカテドラル」としてつくられていると上田篤氏はアメリカ人建築家の考えをもとに指摘しています(『都市と日本人「カミサマ」を旅する』上田篤、岩波新書、2003年)。

すべての文化は表面、もしくはその中心で宗教と結びついているのであれば、反対に、他者の信仰を貶める行為や悪戯に恐れるといった気持ちは、他の文化や聖域すらも傷つける可能性があるということになります。

多くの人々の拠り所となり、また文化を生成する源となってきた宗教を理解することは、他者が何を信じ、大切にしているのかを知ることでもあります。他者を知らず知らずのうちに貶めないためにも、宗教を学問的教養として学ぶ必要があるといえます。

 

教養としての宗教を学ぶ方法

ここまで見てきたように、宗教は国や地域の文化・歴史と密接に結び付いています。それは、宗教が国や地域の文化・歴史へ影響を与えたということと同時に、また文化・歴史が宗教に影響を与えてきたということも意味しています。

また、宗教は別の宗教からの影響も多く受けています。今日の世界三大宗教とされるキリスト教、イスラム教、仏教のうち、キリスト教とイスラム教はユダヤ教に由来しています。また、仏教はバラモン教の影響を多く受けています。

つまり、宗教は文化や歴史、他の宗教などとの関わりなしには十分に語りえないものとなっています。足利豎学会の教養としての宗教学も、このような様々な関わり合いの中で宗教を捉え、学ぶことをその方法としています。

 

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