足利豎学会 教養七科目

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教養とは何か?

すり減らされた教養の価値

昨今、書店に行けば教養に関する啓発本やビジネス書が溢れ返り、「教養が大切だ」ということは様々な場面で語られています。一方、「教養など役に立たない」と考える人達もおり、そういう人達は”役立たず”の教養を教えるのではなく、実践的な職業教育をすれば十分であると考えます。

なぜ教養に関してこのように正反対のことが言われるのでしょうか?一つの理由には、「教養」という言葉の曖昧さがあります。日本において「教養」という言葉は幅広く、ときには便利な用語として用いられています。例えば、一見して役に立たなそうな事柄でも、「~~は教養だ」と言えば何となく役に立つような印象を与えます。

しかし、「教養」という言葉を便利使いするたびに、教養の本来の役割や価値はすり減っていきます。価値がすり減っていけば、そのうち本当に教養が役に立たないものになってしまうかもしれません。このような事態を防ぎ、教養が果たすべき本来の役割に立ち戻るために、「教養とは何か?」について改めて考える必要性が高まっているといえます。

 

日本と欧米諸国における教養教育の違い

教養とは何かについて教育現場から考えてみると、日本と欧米諸国では教養教育に関する考え方が大きく異なります。日本のほとんどの大学では、入試の段階で各専門学部・学科に分かれてすぐに専門領域のことについて学びます。特に1991年の大学設置基準の大綱化(自由化)の後は、一般教養を解体して最初から専門知識を教える大学が増えました。

一方で欧米諸国、例えばアメリカでは大学での四年間を通して教養教育がなされます。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などの名門大学をはじめ、アメリカの大学では四年間を通して幅広い分野の学問を学び、専門領域に関してはその後のメディカルスクール、ロースクール、ビジネススクールなどの大学院で学びます。

また、アメリカにはその後の大学院を有さず教養教育に徹するリベラルアーツ・カレッジも存在します。新島襄や内村鑑三が学んだアマースト大学や、ヒラリー・クリントンなど著名な女性政治家を多く輩出しているウェルズリー大学などで、エリート教育の一環として教養が教えられています。日本で「教養など役に立たない」という風潮があるのとは大きな差です。

 

教養=リベラルアーツの起源と歴史

なぜ日本と欧米諸国との間では教養教育に関してこのような認識の差が生じているのでしょうか?欧米諸国では、教養をリベラルアーツとして捉えています。リベラルアーツは「liberal(自由の)」「arts(技術、芸術)」のことで「自由になるための学問」を意味します。

リベラルアーツの起源は古代ギリシアに遡ります。古代ギリシアでは自由人と奴隷に身分が分かれていましたが、自由人であるために必須の教育として学ばれたのが、リベラルアーツの原型となるものでした。

リベラルアーツとして明確に定義づけが与えられたのは、その後の古代ローマ時代末期です。文法・修辞学・論理学・算術・幾何学・音楽・天文学の七科目が、自由七科として定められました。自由七科の上位には更に神学の予備学として哲学が置かれました。

以後、中世以降のヨーロッパでは、これらの教養に習熟することが偏見や精神的束縛から自由になるために必要とされたのでした。このような歴史的背景のもとで、欧米諸国で現在のようなリベラルアーツ教育が行われているのです。

 

足利豎学会における教養七科目

「”すぐ役に立つ”はすぐ役に立たなくなる」――現代の日本人にとっての教養の必要性

それでは改めて、私達、現代の日本人にとってなぜ教養=リベラルアーツが必要になるのでしょうか?なぜ最初から専門のみを学ぶだけでは足りないのでしょうか?この問題について考えるとき、藤原工業大学(現在の慶応義塾大学理工学部)初代学部長の谷村豊太郎の言葉が思い起こされます。

”直ぐ役に立つ人間は、直ぐ役に立たなくなる人間だ”

これは、経済界からの「すぐに役に立つ人間を育ててほしい」という声に対する返答でした。谷村学部長はこのような考えのもと、実用的な職業教育のみに徹するのではなく、基礎をしっかり教えるという方針を打ち立てました(『読書論』小泉信三、岩波新書、1964年)。この考え方は、教養=リベラルアーツ教育にも通じるところがあります。

「”すぐ役に立つ”はすぐ役に立たなくなる」ということは、雇用における需要と供給の移り変わりを考えてみるとわかりやすいかもしれません。ある仕事においてすぐ役に立つ知識や技術というのは、現時点で需要に対して供給が足りていないために価値が高いとみなされる(あるいは換金しやすい)知識、技術であるといえます。

そうすると、雇用主側はその知識や技術を活用するための高いコストを下げようと、機械などを使って効率化・低コスト化を図ろうとします。一方で労働者側は価値が高く魅力的な知識・技術を習得しようと多くの人達が一斉に取り組みます。そうなれば、知識・技術に関する需要が減り供給は増えるため、価値も下がります。すぐにほとんど役に立たない知識・技術になってしまうでしょう。

国際化と情報化の進んだ現代社会では、多くの知見や技術がかつてない速さで新しくなってきています。そのような社会で生きていくために必要なのは、すぐに役に立たなくなる知識・技術に固執することではありません。変化する社会で自分がどうあるべきか、また他者とどう向き合うべきかについて考え、実行していく力、いわば生きていくための土台となるような力が求められているのです。

そして、その生きる上での土台となるような力を与えてくれるのが教養であるといえます。

 

足利豎学会における教養――お互いの”違い”を理解し、尊重し合うための学び

足利豎学会では、教養、つまり生きる上での土台となる力を養う学びとは、「お互いの”違い”を理解し、尊重し合うための学び」であると考えます。

国や地域を超えて多くの交流がなされる現代では、思想や信条、文化を異にする人達と関わる機会も多くなっています。このとき、人々によくありがちな態度が三つ考えられます。

一つ目は、自分(達)の思想や信条、文化のみが唯一正しいとして、異なる他者を認めようとせずに自らの価値観を一方的に押し付けようとする態度です。国際的に問題になっている民族紛争やその他の社会問題を考えてみると、多くの場合でこのような態度が問題の背景にあることが見え隠れします。

二つ目は、他者の思想や信条、文化に同調してあたかも違いがないかのように振る舞う態度です。異なる価値観による争いを繰り返すよりは、行く先々の相手に合わせてしまった方がよいということです。争いは確かに起こらない代わりに、自らの思想や信条、文化をないがしろにして生きていくことになります。

三つ目は、思想・信条・文化などの異なる部分について一切触れようとしないという態度です。価値観の違いに踏み込むのは不平等や争いに発展するとして、そのような話題は避け、自分自身の価値観も曖昧なままにして、誰にでも当たり障りのないような話題に終始します。一見すると価値観の多様性を認めているようですが、実際は中身のない空虚な交流となってしまっています。

実はこの三つの態度の根底には共通する発想があります。どれも「お互いの違いを理解し尊重し合うことはできない」と考えているのです。このような考えのもと、他者を排斥したり、あるいは単に同調したり、あるいは空虚なやり取りに終始しているのが、多くの人にとっての他者との交流の現状となっています。

そこで、足利豎学会では、「お互いの”違い”を理解し尊重し合うことができるようになること」を教養の目標としています。具体的には、以下の二点ができるようになることを目指しています。

  1. 異なる他者をその価値観や背景も含め、深く理解し尊重できるようになること
  2. 自分の価値観やその背景を他者に理解してもらえるように伝えられるようになること

これらを実現するために必要な教養として、足利豎学会では七つの教養科目を定めています。

 

足利豎学会 教養七科目

足利豎学会の教養七科目は以下の通りです。詳細に関しては、各科目をクリックした先のページに載せています。

  1. 哲学
  2. 修辞学
  3. 歴史学
  4. 宗教学
  5. 運動
  6. 技術
  7. 芸術

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