哲学―物事の基礎を問い求める営み

足利豎学会の教養七科目の中で、全科目の基礎となるのが哲学です。足利豎学会における教養を一本の木に例えるとすれば、哲学はその木を支えて栄養を与える”土壌”としての役目を果たしているといえます。

 

哲学とは何か?

哲学と聞くと何か難しいことのように思えるかもしれません。実際のところ、「哲学」という言葉に馴染みのある人は少ないと思います。もし知っていたとしても、著名人が人生哲学と題して語るような「人生論」として理解している人も多いと思います。

では哲学とは一体何なのでしょうか?語源から辿ると、日本語の「哲学」は西周が明治初期に西洋語の「Philosophie(ドイツ語。英語ではphilosophy)」の訳語として採用した言葉になります。

さらに西洋語の「Philosophie」ないし「philosophy」の起源は古代ギリシア語の「philosophia(古代ギリシア語表記ではφιλοσοφία)」にまでさかのぼることができます。「philo-」は「愛する」を意味し、「sophia」は「知恵・知識」を意味するため、全体として「知を愛する」という意味になります。

つまり、哲学は「知を愛し求める」ことであり、ある種の知を探求する営みのことを指しているといえます。

 

物事の基礎を問い求める営みとしての哲学

”ある種の”知を探求する営みといっても、それは、哲学の扱う対象が何かに限定されているという意味ではありません。むしろ、哲学の対象はあらゆる分野に及びます。例として、以下に哲学の問いをいくつか挙げます。

  • 世界のはじまりには何があるか?
  • 人間とは何か?
  • 人はどう生きるべきか?(道徳哲学/倫理学)
  • 国家権力は何に由来するのか?(政治哲学)
  • 科学とは何か?(科学哲学)
  • 教育とは何か?(教育哲学)
  • 確かな知はどのようにして得られるか?

このように様々な事柄が哲学の対象になり得ます。一見すると、哲学とは何かますますわからなくなってくるかもしれません。

しかし、これら全ての問いに共通することがあります。それは、何らかの対象について、それが成立している根拠を問うているということです。例えば、「人間とは何か?」という問いは「人間を人間として成立させているものは何か?」と言い換えられます。

つまり、哲学は様々な「物事の基礎について問い求める営み」なのだといえます。

 

哲学を教養として学ぶことで得られるもの

哲学を教養として学ぶことによって、どのようなことが得られるのでしょうか?一言で表すなら、それは「思考における自由」といえます。

普段私たちは様々な事柄を前提として生活を営んでいます。例えば、私たちは当たり前のように時計が指し示す時間に忠実に合わせて行動しています。日本の電車が時刻に正確なことは有名な話ですが、他にも分単位で時間に合わせて行動している場面は多いです。

このことは一方で、時間に関する不寛容さにも繋がります。時間に遅れることは数分であっても許容できないこととなり、遅れた人は「だらしがない」「社会不適合者」といった烙印を押されることもあります。

もし、私たちがそのような考えを前提としていて特に疑うことがなければ、時間に対して異なる考え方をもつ他者がいた場合に、理解し受け入れることは到底できないでしょう。

しかし、そこで「時間とは何か?」「時間通りに行動しないことがなぜ悪いとされるのか?」と自らの前提について改めて問い直すことができたとすれば、そこから考え方を変えて他者を認めることができるかもしれません。あるいは、認めることはやはりできなかったとしても、少なくとも他者を理解する余地は広がるでしょう。

今まで自分が当たり前だと思っていた前提を問い直すということは、そのような前提に対してもう一度考え選択する自由を自分自身に与えるということでもあります。これが「思考における自由」であり、それを可能にしてくれるのが哲学なのです。

思考における自由を得ることができれば、前提の異なる他者を理解し認めるための素地を身につけたことにもなります。自分の前提を一度かっこの中に入れることができて初めて、私たちは他者と同じ場所に立って物事を見ることができるのです。

 

哲学について取り扱う内容と修養の方法

足利豎学会の教養として哲学で取り扱う内容は、西洋哲学、東洋哲学、日本哲学のいずれの領域にも及びます。

しかし、哲学史や哲学者について詳しくなることはあまり重要ではありません。哲学において最も重要なのは、「問う」ことです。そのため、先人の哲学や思想は、問いについて考える際に気づきや示唆を与えてくれる限りで参照するにとどめます。

代わりに用いるのは、何らかの問いに関する哲学的対話です。「生とは何か?」「善とは何か?」といった哲学の問いに対して対話を通して思考を深めていくのです。

哲学はもともと対話の中で生まれた営みです。「philosophia」という語を初めて用いた古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、対話を重んじて自らの思想を著作にすることはありませんでした。その弟子プラトンの著作も対話形式で書かれています。

同様に、儒家思想の祖である孔子も弟子との間での生きた問答を重んじ、『論語』として残したのは孔子の弟子達でした。

足利豎学会における哲学の修養も、先哲と同様、生きた対話を通じて洞察を深めていくということに重きを置いています。

 

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